「自分らしさ」の果てに

ジョー・ラリーの新作がマスタリングを終えた。お互いに何となく気が合って、何となく日本盤を出すことになったのだが、ディスコードの作品を出すことに今さらプレッシャーを感じている(来日公演は来年の9月を予定)。ほぼ時期を同じくしてクリア・ブレッカンのデビュー・アルバムも完成した。7インチを2枚を出して、ようやくアルバムまでたどり着いた。ブルックリンとレイキャビックを何度も往復してこつこつ作ったもので、傍らで見ていたものとしても感慨深い。大切に世に出してあげよう。

先月、何度か往復した伊豆下田への釣行の深夜ひとり車中考。結論として「自分らしさ」はダメだということになった。「自分らしさ」とか「個性」を認めることは、その子をだめにする(俺、父親だし)。理由はシンプルで、「自分らしさ」を認めると、それを美旗に「学ぶ」ことを放棄するから。素直に自分には未熟なところがあります、と認めるところからしか学びは始まらないのであって、「自分らしさ」はそれを邪魔する。ちなみにそう思い至るまでの下田からの帰路車中BGMは、アンクル・テュペロ→ヴィクトリア・ウィリアムス→ジェイホークスという血縁肉親ローテーション(ここまでで赤川通過)→気分が高揚してついつい早川義男(伊東あたり)→センチメンタルに70年代のジョン・ケールを2枚(熱海)→眠くなったのでフリクション with スワンズ(真鶴)→それでも眠いのでクールス(小田原)→ヒートダウンでアル・クーパー(厚木から東名へ)。

じゃ、何を学ぶか。そりゃ「技術」だろ。絵を描くならデッサンという「技術」。音楽なら何らかの楽器を自在に弾いて歌って、できれば楽譜を読み書きできるという「技術」。しんどいが、そこまで立ち戻らないと、今の惨状から回復できないだろうと考える。それは歌舞伎や能といった伝統芸能の世界の教育マニュアルを思えば納得するはずで、物心ついた頃から、立ち居振る舞いという所作の基本「技術」を梨園のガキは徹底的に叩き込まれる。「自分らしさ」などそこではいっさい認められないわけで、そんな戯れ言を言ったら、問答無用にぶっ飛ばすというのが連中の基本マニュアルになっている。武道の世界も、料理や大工といった職人の世界もそうで……だいたい芸術をアートと言い出した頃から、優れた芸術家は優れた職人だったことをまんまと忘れて「技術」を疎んじ、舐めて、うぬぼれて、堕落が始まったのだ。

そして「技術」をある程度習得すると、「自分らしさ」を発揮できる余地がまずないことにようやく気づくのだが、それでも「自分らしさ」をどこかに表現しないと世間は評価しない。最後の最後に「お前らしさはないのか」と問われるという、禅問答のような段取りとなっております。

自尊心が強く、ややもすると選民意識に浸るくせに、他人の目や評価を臆病なほど気にする。基本的な「技術」はもちろん、基本的な知識もないくせに、自分を評価しない人には批判的。でも身内にはあきれるほど甘い。「自分らしさ」の疫病蔓延の果ての、こんな風潮をもう終わりにしたいなあ。自戒の念も込めてね。

先日、下田での釣果。中央が本命のチヌ(黒鯛/31センチ)で周りの小振りなチヌもどきはヘダイです。顔がやや丸いでしょ。

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