直情的とも、発作的とも言える反原発のうねりに違和感を覚える。
チェルノブイリ当時、市民運動崩れの先輩にさんざん原発論議を吹っかけられた苦い記憶があるが、逆にその熱さを骨身に知っているだけに昨今の反原発の軽さが気味悪い。
原発はしばらく止められない。
例えば関電の総発電量の46%は原発だそうだ。止められるわけがない。
だったらどうするかと考えるのが、まともな大人の思考だろうに。
「新規の原発は作らない」「稼働期限が終わったものは順次廃炉にする」といったところが現実的なところだが、それならそれで代替エネルギーの算段、および安全保障も含めた新しいエネルギー政策を確立する必要があるんだろう。それをしくじったがために一線を越えた、先の戦争の轍を踏まないためにも。
3月号の文芸春秋に保坂正康が寄稿し、指摘したことを参考にすれば、さしずめ反原発デモは「現代版日比谷焼き討ち事件」といったところか。政府/行政にできないことをだだっ子のように要求するという意味で両者は同質であり、あの事件から日本は転がるように破滅への道を歩み始め、昭和20年の敗戦を迎えた。
保坂の言わんとするところは、昭和の初め、政党政治家と官僚に無力感を覚えた国民が軍部に強いリーダーシップを期待した当時の世間の空気に、今の空気がそっくりだという指摘だ。さしずめ愛知の河村や、大阪の橋下あたりが「柔らかいナショナリズム」と「耳に優しい反原発」の美旗でも掲げようものなら......想像するだけで気味悪い。石原の再選は何を意味するのかも併せて、まれに見るポピュリズムの台頭を予感する。
で、八ツ場ダムどうする?
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