梅雨も明けて、さあ夏だというのにベランダが寂しい。金曜の夜中にむずむずし始め、週末は半日かけて土いじりを楽しんだ。
流儀はこう。ホームセンターの園芸コーナーにあるメインステージから外れた日陰に、半値で叩き売られてるような疲れた鉢をまず探す。花芽の数よりも生命力に注視して4、5鉢を見繕うのだが、この時、頭には家の植木鉢を想像しておくこと。帰宅後はいつもの要領で、園芸用の土に化成肥料を一握り放り込んで混ぜ合わせ、あらかじめイメージしておいた植木鉢に植え替えてたっぷりと水をやる。鉢の底に多めに軽石を入れること、鉢の底から水が滴り落ちるまで水をしっかり差すのがポイント。それがすんだら直射日光を避けた場所に並べて眺め、鉢と花のバランスや土中の空気の抜け具合をじっくり観察する。運がいいと、水を吸った土が空気を吐き出してキュっと泣く瞬間を耳にできる。
毎年この時期、欧米はみんな長いバカンスを取るから仕事がどうしても滞るのだが、経験上、そんな時はさっさとあきらめて読書を楽しむのが得策。最近、面白かったのは鎌倉にある地方小出版社、港の人(由比ケ浜から歩いて10分だってさ)から出版された『珈琲とエクレアと詩人』と『えびな書店店主の記』の2冊。義父から回って来た本だ。
前者は詩人、故北村太郎の最晩年に同じ屋根の下で暮らした女性の回想録。北村太郎とはご存知のように、田村隆一、鮎川信夫と3人で同人誌『荒地』を創刊した詩人。田村とは幼なじみで、女性に奔放だった彼の4人目の奥さんと恋に落ち、鎌倉の一軒家(田村の家だが、彼は女ができて家出中)で同居した。筆者はその家の一室を写真家の旦那と間借りして暮らし、同居人だった最晩年の北村と交流した。本職の文筆家でないぶん、飾り気のない淡々とした文章が気持ちよく、詩人関係者の愛憎狂気がドロドロした世界をあえて避け、傍観者として客観的に北村の人となりを綴っている。ちなみにドロドロ好きは、ねじめ正一の『荒地の恋』を勧める。そこんとこ詳しく書いてますので。
『えびな書店店主の記』はこれまた鎌倉にある古書店/美術商が、雑誌『四月と十月』に連載した身辺日記をまとめた文庫。古本、古美術民芸、絵画の世界を描いたエッセイで、さらりと最後まで読ませる。専門知識がなくても大丈夫。もちろん洲ノ内徹を意識しなくはないが、彼には希薄だった商売っ気がこの人にはしっかりあるから、変な緊張感というか言葉の責任というものがないぶん気楽に読める。作品との巡り会いや縁というものをうれしそうに書くが、何よりもその作家、作品の背景を熟知しているのが印象的だ。だから縁ができ、作品に巡り会うのだなぁ。こういう足腰に余裕のある大人の身辺雑文は、気持ちをほっこりさせるね。